ベーコンエッグ K/A
アーサーの人生に、ちゃんとチェストに入っている衣類、というカテゴリが存在しなくなって随分と時間が経つ。 ぼんやりとした頭でその辺りに落ちているパンツを履いて、次にその辺に置き放してあった靴下を履くような生活をしていた。今日、帰ってから洗濯機に放り込んでおこう、と思ってそのまま昨日の着た切りであることもざらだ。はっきりいって、社会人としてはどうしようもない人生を送っていると分かっているが、朝は紅茶を見るまで目が覚めることはないのだ。 そういう生活に慣れ切ってしまっていた。
夜が明けたのがいつのことなのか、アーサーには分からない。 寝返りを打ったタイミングで、目がくらむほどの朝の光が飛び込んできた。 白と黒のモノトーンの部屋を、半目で見渡して考えたのは、その辺りに落ちているパンツがない、ということだった。濃紺の、あるいは深い黒にも見えるボタンダウンのシャツが椅子に掛けられていて、ただそれだけ。 いつもと、変わらない朝がいい、と思っているのに、どうして昨日のぼくは家に戻らなかったんだ、とアーサーはため息を吐く。 靴以外の着衣、せめて靴下はないだろうかと目で探したけれど、そこらのファッション雑誌に出てきそうなくらい清潔そうな部屋では、それも無理そうだった。 仕方がないので、色の濃いシャツを羽織る。腕まくりの跡のまま、袖を伸ばさずに着込む。アーサーの腕だと、手首が見えるくらいの長さになる。 前をぶらぶらさせているのを見せるのもどうかと思うくらいの理性は残っているので、ボタンを嵌める。 ふわりと、フレグランスのような、何か良い匂いがする。街中で居合わせたなら、気取った香水を付けたスノッブ、と思いそうなそれが、紅茶と、ベーコンエッグの匂いの次くらいに好ましいと思うようになるには、まだ少し時間が掛かるだろう。 恋人の残り香に気を取られていたためか、一つずつ、丁寧に嵌めていったつもりで、気が付けばボタン穴がずれている。外して付け直すか、あるいは、このままキッチンかバスルームへと移動して、ぼくの服を返せ、と言うべきだろうか。 部屋のドアから、キイ、と小さな音がする。
「アーサー、食事が出来た。」と呼ぶ声が聞こえる。 おはよう、と言うと、いい朝だな、といういつもの返事が返ってくる代わりに、カーンからハグがプレゼントされた。
「食事の前のキスは?」
「それは、お前が顔を洗ってからだな。」 髪も梳かしたらいい、という恋人の顔は、どうにも優しくて居心地が悪い。きっと、カーンはこれから出勤なんだろう、いつもと同じなら、後30分で家を出るから、また鍵を閉めて置いてくれ、と言われるのだ。アーサーがその気になっても、出勤時間は変えられない。
「顔を洗うのは、後でいいよ。味見だけさせて。」
かすかな空腹を呼び覚まされたアーサーが、お目当てのベーコンの匂いをさせている恋人のフェロモンに、逆らえるはずもない。 首に腕を回して、キスしてよ、とねだるアーサーに、カーンは盛大な音をさせたバードキスをした。額にひとつ、それから頬にひとつ。
「今日、店に来たら、お客の前でキスしてやる。」
「出来るものなら、してくれ。お前が私のものであることが人に知れ渡るのは、善いことだ。」
「逆だよ、君がぼくのものなんだ。そうだろ?」
「逆もまた真なり、ということだ。」と言って恋人は笑う。 アーサーには、その使い方が合っているかは分からないが、カーンの機嫌が悪くないということだけは分かる。
「朝ご飯を食べさせてくれるかい、ダーリン。」 後で、コーヒーの中に、たくさん砂糖を入れてやろう、と思いながら、アーサーはカーンの唇にキスをした。カーンの手が、アーサーの腰にそっと触れてくる。 歯を磨いておけばよかった、といういつもの朝の、いつもの後悔を思い出すまで、時間はかからないだろう、と頭の隅で思った。