焼きたてのビスケットとキスと K/A
とある地球が爆発し、アーサー・フィリップ・デントが、タオル一つを手にヒッチハイクを始めた日のこと。 パラレル世界では、別の地球に住まう、同じく紅茶好きのアーサー・フィリップ・デントが、台所に立って聞く人を絶望に突き落す三行詩をどうにかして考えつかないものかと思い悩んでいた。その詩を聞いた人間を、自分と同じ絶望に叩き落とすために。
アーサー・フィリップ・デントは、怒っていた。 なにしろ、恋人であるカーン・ノニエン・シンに、焼きたてのビスケットを食べられてしまったのである。 型抜きをしていたとか、作成中のビスケット、ではない。既にオーブンに入れてしまい、時間が来ればチョコレートかマシュマロを挟んで食べるはずだったほかほかのビスケットなのである。 冷めたビスケットも美味しいには美味しいけれど、舌を焼くほどのビスケットは、全くの別物である。 大きな悲しみが、アーサーを襲った。 それもこれも、ビスケットの焼ける匂いの充満する部屋で、優しい恋人を迎えるという幻想――普段のアーサーが聞けば絶対に反論するだろうけれど、今は仕方がない――を胸に、転寝をしていたせいだ。 キッチンタイマーを、かっちりセットした。 いつも忘れるタイマーを今日に限って思い出したのは、昨夜のカーンが、焼きたてのビスケットで舌を火傷した恋人に、焼き上がってから食べるまで、せめて紅茶を入れる時間を図るための砂時計のようなものかなにかが必要ではないかと言い出したからだ。アーサーの恋人は、生活を便利にするための出費を奨励しがちなタイプだった。 そして本日。 仕事を切り上げて帰宅したカーンは、アーサーの安眠を守るためという名目でそのタイマーを止めてしまったのだ。カーンは、週末くらいはアーサーとゆっくり過ごしたい、と思ったらしい。 完璧に理路整然とした言い訳だった。 その上で、カーンは、美味そうな匂いをさせているものを少しだけ味見しようと思ったのだ、釈明した。 (口にしなかったけれど、うたたねをしている恋人の代わりにという言葉をカーンが飲み込んだことは、彼の目が語っていた。) そうして、空腹に耐えられずにクッキーを完食してしまった男が地球上に誕生し、平凡な日常と紅茶を愛する平和主義の男ひとりを、絶望の淵に叩き落としたわけだ。
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命題:ひりひりした舌で食事を楽しむのは難しい。
話しは少し前にさかのぼる。 アーサーは、一人寝のベッドの中でそのどうでもいいような事について考えていた。この三十年余りの人生の中で、折に触れそのことに気付く機会があったけれど、キスするのにまで不都合が生じるのを学習したのは、カーンという特定の恋人が出来てからだった。 カーンは、アーサーにキスをする。 それは、アーサーの啄ばむようなキスから始まった。覚えていないけれど、たぶん酒の弾みのようなものだったと思う。 カーンにキスされると、アーサーの身体はふわふわ浮いてしまいそうになる。もちろん、鳥でもないアーサーが、重力に逆らって浮いてしまうはずはないのだけれど。 キスで足元がおぼつかなくなった身体を、カーンはしっかりと抱きとめてくれる。 それは、めくるめくような体験だった。 恋人のいなかった時代に、片手で自分を慰めていたような性急な興奮とは、全く種類が違う高揚だった。確かに、行為の前のそわそわするような気持ちは同じかもしれない。 けれど、相手がいるということがこうも違ってしまうのか、というのは驚くべき発見だった。アーサーの血の巡りは奇妙に早くなって、身体は熱くなる。 身体の奥がじんと痺れて、自分の体温と、相手の体温が混ざり合って足先から解けてしまいそうな気分だ。 キスの後で互いの顔を見つめあうと、心臓から血液が早回しで回ってくるような感じになる。 けれど、カーンはいつもキス止まりだった。 抱きしめる以上にアーサーの身体に触ったりはしない。 お互い、この先があることを知っているというのに。 (ぼくは大丈夫だと思っているけれど、カーンはどうなんだろう。いつか、ベイクドビーンズを食べ続けた人間みたいに、飽きたりしないだろうか。) アーサーは、そわそわするような気持ちを感じたまま、カーンとキスだけの関係を続けていた。 それだけで満足している部分も大きい。なにしろ、今のアーサーにとって、カーンに間借りしているこの小さな部屋が自分の家なのだ。もし関係が終わってしまったなら、また独り暮らしの生活に逆戻り。おはようもおやすみもない、暗い部屋に帰ることになる。キスだけの関係を続けるなら、そんな寂しさのことを考えなくていい。その場で満ち足りた気分を分け合ったら終わりだから。 けれど、時々はキスだけじゃ物足りない、と思ったりもするのだ。そういうことを考えた日にはキスをしない理由が必要だった。たとえば、舌を火傷したと言う言い訳とか。 一週間前に、同じようにクッキーを作った夜、アーサーの言い分を優先して、カーンはキスをしなかった。 アーサーからしたら、カーンがそのうちキスを再開してくれるものと思っていたのだ。 けれど、その次の日も、そのまた次の日も。カーンは、アーサーの許可が出ないうちは一度もキスをしなかった。 アーサーはとうとう痺れを切らして「ぼくは君にキスしたいけど、君はどうなんだ?」とカーンに言ってやった。 そうして、三日目で漸く短いキスをしてもらったとき、少しだけ舌のひりひりはあったけれど、アーサーはとても安心した。 熱々のクッキーを食べたあの夜。本当に火傷をしたのか、と言ってカーンが強引にキスをしてくれることを望んでいたのかもしれなかった。そう思うと、アーサーは自分が小さな子どもになった心地がした。 「恋愛なんて、ぼくには向いていないのかも。」とカーンにぼやいた。カーンは呆れたような顔で、その場でアーサーにその日二度目のキスをした。 カーンは、そう、アーサーには日に三度しかキスをしない。朝のいってきますと、夜のおかえり、そしておやすみのキス。おやすみのキスは時折、熱烈な恋人のキスになる。一日の仕事を終えたアーサーに、そのご褒美をあげるかのような規則正しいキスのカウントも、アーサーには不満の種のひとつだ。カーンには、絶対に言わないけれど。 アーサーは、ふん、と言って目覚ましを掛け、それから目を瞑った。瞼の裏に恋人の顔が浮かぶことはないけれど、カーンとキスするときの彼の匂いをアーサーは思い出した。