Be together(HR/ホラノフ)
「そういえば、断らなくて良かったのか?」
「何が?」
「母さんにチキンとパスタを持っていくって言われただろ。」
「あの流れで断れるか?」とイリヤは肩を竦めた。 「断ってそれまでの話を台無しにするくらいなら、いい印象を残した方がいいだろ、お互い。」
「それは……。」確かにそうなんだけど。
「ん? 何が問題だ?」とイリヤは言った。
「ひとつ、母さんに、父さんが見たよりもっとヤバイところを見られたら困る。」
「今更。」
「ふたつ、よく考えたら、ここで過ごせるのも残り数日しかない、」とそこまで言うと、イリヤはロシア訛りのいつもの調子で「No,No,No」と言ってから、馬鹿みたいにケタケタと笑った。
「笑うなよ、イリヤ。」 こっちは、せっかくふたり水入らずでいられるところを安請け合いしたと残念に思っているのに。
「いや、だってお前……昼にあっちのコテージを出てくる前は、どうしようってビビッて俺の足にすがってたくせに。」
「あ。」 そうだった。 イリヤは、すっかり忘れちまって、と腹を抱えている。レイダースのTシャツを着たままで笑われると、正直腹立たしさが募るが、バツの悪さもあって、何も言い返せない。
「ふたり一緒に出掛けるので正解だった、だろ?」 ひとしきりの笑いがおさまると、イリヤは、ここぞとばかりににやついた笑みを浮かべた。
「両親と次の約束が取り付けられただけでも、十分な成果だ。そうは思わないか?」
「そうかも。」
「それに、ユナのパスタは美味かった。」
「ああ、父だよ。」
「……あ?」とイリヤは呆けた顔をした。 まあ、チキン持っていくから、て出がけに言ったのは母さんなんだよなあ。パスタ皿に料理を取り分けたのは父さんだけど、本当に手料理を振舞ったのが誰かなんて、あの状況でイリヤに分かるはずがない。 「うちでは長いこと、料理は父さんの担当なんだ。僕のリンクへの送迎だけだった頃は違ったけど、母さんは、長いこと僕のマネジメント役だったし、定時で帰れる父さんが、サンクスギビングの七面鳥を焼くだけじゃなくて、普段から煮込みや軽食を作るスタイルになって、それが定着した。」
「シーズン中のユナは料理に手が付かないし?」とイリヤが訳知り顔で言った。
……合ってる。
「なるほど。」
「なんだよ。」
「料理の上手い下手は、遺伝には関係ないってこと。」 やっぱり、イリヤ・ロザノフは、いつも一言多い。 けれど、不思議なことに、その言葉に対する反発はちっとも起こらずに、奇妙にくすぐったいような気持ちになった。 「あのパスタ、気に入ったのか?」
「ああ。」
「昔、良い胡椒とヴィンテージワインの値段のするオリーブオイルを使うのが肝だって聞いたことがある。」
「へえ。」とイリヤが眉を上げた。調味料の棚の前でにらめっこしながら、この乾燥赤唐辛子と黒胡椒をロザノフの鼻に詰めてやりたいと父さんが言っていたことがあるのはイリヤには隠しておこう。
「十点満点でどのくらい美味しかった?」
「シェーン、おい。親の料理に点数を付けるな。」
「それはそうだけど、」と口ごもると、イリヤはサイドブレーキに置いたシェーンの右手に自分の左手を重ね「そうだな、モスクワで食ってたパスタと同じくらい?」と言った。
「モスクワにパスタを食べる店があるのか?」
その質問に答える代わりに、イリヤはアヒルの口になった。 ブーイングの代わり? 「あれでも一応首都だ。イタリア風の店だろうが、中華料理だろうが、何でもある。」
シェーンが知ってるロシアは、オリンピック中に滞在した選手村の周りのことだけだ。泊まった部屋の黒ずんだ壁は、掴んだ勝利と同じくらい忘れ難いが、それ以外の細部は、これだけ月日が経ってしまうと、ほとんど記憶がぼやけている。 覚えているのは、スコットたちから、友人の話――ゲイであることを公表したというシェーンが知らなかった《話題》としてアイスクリーム屋で聞いたこと。その時、真っ先にイリヤの顔が思い浮かんだこと。緒戦で敗退したイリヤから、対話を拒絶されたこと。 シェーンは、イリヤの故郷のことを、今でも何も知らない。ソチ五輪の前にしろ、彼が葬儀で不在だった間にしろ、知識を蓄える機会は確かにあったはずなのに。
「イリヤ、」
話したくないなら、と言おうとすると、イリヤは手を軽く握るようにした。 今のこれは、話したいから話してる、と伝えて来るみたいに。
「モスクワのパスタは悪くない。観光客相手のレストランのボルシチよりずっとマシな味だ。」
「そうなのか?」
「お前だったら、『カナダってメープルシロップ掛けたパンケーキ以外に何かあるのか』って聞かれて、黙ってその通りだって頷くのか?」
「そりゃ、モントリオール・メトロズにシェーン・ホランダーがいるからさ。」と肩を竦めると、イリヤはファック、と笑った。
お互い様だ。
「腹が立ったらグローブを投げつけるのが正解だろ、そいつの顔に。」
「僕は乱闘はしない。」と言うと、イリヤは嘘つけ、と言ってまた笑った。
正直に言うと、決してしないと言い切ってはいないから、これは嘘じゃない。
「笑ったら、ちょっと腹が減って来た。」
「さっきほとんど食ってなかっただろ。」とイリヤが気づかわし気に言った。ボーイフレンド・モードだ。
「お前に譲ったんだ。」とシェーンが笑うと、イリヤは少しバツが悪そうな顔になった。
「久しぶりのまともな飯だったから。」
言い訳なんて、珍しい。 両親との初対面の場でも生来の神経の太さを見せつけたボーイフレンドが、飢えたジャッカルみたいにパスタをがつがつ貪っていたのを思い出した。 その上、チーズも山盛りに掛けていた。 皿に食らいつくようなあの勢いを見るだけでも、ここ数日の代わり映えしない料理にイリヤが飽きてたことが分かったけど、もしかしたら、それだけではなかったのかもしれない。
「パスタが好きだって知らなかった。」
「俺だって、ユナがコーヒー係で、デヴィッドが旨い料理を作れるって知らなかった。なんていうか、……そう、退屈じゃないな。」
ニューヨーカーを読んでる親にしては控えめだ、とイリヤは肩を竦めた。 シェーンの両親ふたりは、イリヤのことをほとんど気に入ったように見えた。 特に母さんは、イリヤが壁に掛けた《自慢の息子》の昔の写真を眺めて、この頃は可愛いとか、すっかり生意気そうな顔になってる、と講評する様子のイリヤを見て得意げな顔をしていた。 モントリオールに他の男はいなかったのか、とイリヤの前で言ったのは、確かに当て擦りの気持ちがないわけではなかっただろうけど、ふたりは、イリヤがこれまでの年月で積み上げて来たホッケー選手としての輝かしい戦績については、シェーンと同じくらいよく知ってるし――そうしたキャリアの面も、肋骨を痛めても優勝を掛けた試合は諦めない無鉄砲なホッケー野郎であることも含めて、息子のボーイフレンドとしては合格の部類だったのかもしれない。 シェーンが所属するモントリオールのチームにとっては、最低のクソ野郎の面はあるにしても、それはマスコミの前で見せるイリヤの一面でしかない、ということはちゃんと伝わったと思う。 イリヤはどうだろう。 ふたりのことを好きになってくれただろうか。
「――どうした?」
「他に好きなパスタはある?」と誤魔化すように問いかけると、イリヤはふむ、と考える顔つきになって、ロシア語で小さく呟いた。
「今なんて?」
「いや、あれはなんて言うんだと思って。イカの口から出る、あの黒いの。」
「イカ墨のことか?」
「イカ墨。」
イリヤは繰り返して頷いた。「あっちで練習してたリンクの近くに、あれで真っ黒になったパスタが旨い店があって。そこに、時々練習を抜け出して食いに行った。」
「へえ。」
「太ったイタリア人のおっさんがやってるパスタ屋だった。分かるだろ、街中によくある類の店だ。」
イリヤは、不意に何かを懐かしむような顔つきになった。
「地元じゃもう、ほとんど外で飯を食わなくなった。出掛けても、踊ったり、酒を飲んだりするだけで。黒いパスタも、あれだけ好きだったのに、十年近く食ってない。」とイリヤは言った。
「モスクワにはもう帰らないと決めたけど……あの店のパスタが食えなくなることは惜しいな。」
「代わりに、父さんが旨いパスタ作ってくれるよ。」と言うと、イリヤはまた笑った。
ふっと鼻に抜けるような笑い方だ。
「そこはお前が作るんじゃないのか。」
料理が苦手なことは知ってるだろ、と反論しようとしたけど、これまでにイリヤが作ってくれたツナメルトや、部屋に泊まるたびに常備されていたジンジャーエールのことをふと思い出した。
「君が気に入ったなら、僕がレシピを習ってもいい。」
「おい、算数は大丈夫か? パスタは一掴みで100gだぞ。」
「僕の予定では、君が三人前のパスタを食べてくれることになってるから。」と言うと、イリヤは吹き出した。
「シェーン、シェーン。ティーンエージャーじゃあるまいし、ハンバーガー八個だって持て余すんだぞ。パスタもそんなには食えない。」
「栄光の八十一番、あのイリヤ・ロザノフも、もうおっさんか。」と大袈裟にため息を吐くと、イリヤは眉を上げた。それとこれとは話が別らしい。
「仕方ない、算数が出来ないボーイフレンドの代わりに、俺がデヴィッドに教わるか。」とイリヤは陽気に声を上げた。
「言っておくけど、四人前の材料をきっちり半分にしても、パスタはうまく茹でられないぞ。」
「ちゃんと教えてくれるさ。」とイリヤは笑った。
「そうだな。」
シェーンのボーイフレンドは人の懐に入り込むのが上手いし、父さんも新しいことを始めるのが苦にならない方だから、嬉々として引き受けそうだ。 その場に立ち会って、イリヤが料理の手際を母さんに品定めされてるところを見るのも楽しいかもしれない。
「……ところで君、さっき聞き捨てならないことを言ったよな。買い食いのために練習を勝手に抜け出したとかなんとか。」
「腹が減ってたんだよ。」
ちびっこギャング時代のイリヤ・ロザノフか。
「君って、さぞかし扱いづらい子どもだったんだろうな。」
「さあな。母親を亡くしたばかりの子どもなんて、みんなそんなもんだろ。」
あ。
「ごめん。」
「いいんだよ、今日からは、ユナとデヴィッドが俺の親みたいなもんだ。」とイリヤは笑った。
「何だって?」
「もう一回言った方がいいか?」
「いや、聞こえたよ、ちゃんと。」
不意打ちだ。 こっちは運転してるのに、クソっ。 めちゃめちゃキスしたい。
「そういえば、もの忘れの激しいキャプテン様にひとつ言っとくけど、あと何年かしたら、俺と同じくらい扱いづらいチビ共向けのサマーキャンプをやるんだぞ?」
「うわ、そうだった。」
「ふたりで手が回る人数って言ったら……せいぜい半ダース、多くて一ダースか? それ以上だと、俺とお前だけでやるって規模じゃなくなるだろ。」
「確かに。」
一気に現実に引き戻された。 ヘイデンには、いや、ヘイデンとジャッキーのふたりには、その前に本当のことを告げなくちゃならないだろう。 僕とイリヤとが、二人だけでチャリティーをやるべき理由を。
「俺達が目を離した隙に無鉄砲やって怪我しないように、あとこないだのお前みたいに子どもが頭を打っちまわないように気をつけないと。」
「責任重大だ。」
「ああ。それでも、やるんだろ?」
「うん。」
イリヤとずっとこの先も一緒にいたい、と言った言葉を本当にするために。出来ることは、何でもやるつもりだった。
コテージが見えて来た。 日没前の夕映えに照らされて、ひときわ明るく輝いている。 申し分のない、夏の夕暮れ。
「焚火みたいだな。」とイリヤが言った。
「夕陽の色?」
「うん。」
「このコテージ、気に入った?」
「ああ。ユナとデヴィッドのコテージも。」
「そうか。」
良かった。
「正直、飯を食う場所は、あのくらい狭くてもいい、俺には。」
確かに、椅子の下で、ちょっとつま先を動かせばイリヤが同じように返してくれるという体験は、悪くなかった。
「お互いの顔を見て食える方がいい。お前にキスするのに、わざわざ隣に寄ってく必要もないし。」
そんな風に思っていたのか。 シェーンは、両親の前でイリヤにキスされたことを思い出して、ぱっと顔を赤らめた。 幸い、夕陽に照らされていて、シェーンの顔が赤いことは分からなかっただろう。
サイドブレーキを引いて車を停止させると、運転中にふと頭に思い浮かんだことを口にした。
「イリヤ、いつか……そのうち。」
「うん?」
「僕の部屋にも、また君を呼びたい。」とシェーンは言った。
わざわざ言わなくとも、という顔をするイリヤに、「いつかみたいに、裏口で君を待つんじゃなくて、玄関で、君を迎えたいんだ。」とシェーンは言った。
「玄関?」
「うん。正面玄関で。」
今、僕らが湖畔のコテージで出入りしているように。 僕がヘイデンの家に迎え入れられるときに、いつもそうされているように。 課題や問題は山積みでも、この先のふたりにとって、大事な思い付きだと思えた。
君がオタワに移籍したその後でいいよ、とシェーンが言うと、「俺はいいけど、お前は気をつけろよ。浮かれて脳震とうはもう御免だ。」とイリヤは真面目な顔で言った。
ああ。 僕のボーイフレンドは、真剣な顔も至ってセクシーだ。
「イリヤ、君にキスしたい。」
「そこはちゃんと注意する、って言えよ。」
ごめん、と謝りながらイリヤに軽いキスをしてから、慌ててシートベルトを外し、車の中から滑り出た。 逃げ出すように車を降りると、イリヤが追い付いて、また手をつないできた。
イリヤの手は暖かくて、その目が自分をうっとりと見つめていて。
全てが夢みたいだ、と心から思った。