夢の中で紅茶を飲む K/A
お前が死に、私が死ぬ、とカーンは言った。 「ぼくが死んで、それから君が死ぬ。いずれふたりとも死ぬってことか?」 「いや、お前がいなければ、生きている甲斐もない、ということだ。」 「そんなのはいやだな。」アーサーの声は掠れて小さくなっていた。 息が苦しいのだろう。とうとう昨日、彼はカーンの血を拒否した。 「お前の残した紅茶があるだろう。死んだ後で、棺に入れてやる。私も、残った茶を一杯飲めば気が落ち着くはずだ。」 「そのために茶を育ててるわけじゃないよ。」そう言って彼は咳き込んだ。 アーサーという存在は、カーン・ノニエン・シンの生活の経糸を成していた。 その細い糸が、今、途切れようとしていた。 「でも、そうだな、君がそうしたいなら自分の苗木を買いに行かなきゃならないよ。」 「どうしてだ?」 「ぼくが全部持っていくからだ。自分のお茶を、君との思い出ごと。君は、君の新しい茶の木の若葉を摘むんだ。ストレートフラッシュだ。きっと今より美味しいお茶にありつける。そうしたら、多分、未練が出来るはずだ。生きることに。」 アーサーの肌は枯れて、かさついていた。それでもまだ、暖かみがある。 「アーサー。」カーンはアーサーの手を握った。 茶を入れていた、五分経っていたが、カーンはアーサーの横に控えていた。 この手を離した隙に冷たくなっていたらと思うと、席を立って茶を入れにいくことは出来なかった。 You die.I die. 「君とぼくの順番が逆ならいい。本当はそうであればいいのにと思う。」 最後に目を見せてくれ、とアーサーは言った。 全てを言い切る前にカーンがアーサーにキスしたので、その願いは叶わなかった。 それから、あらゆる場所に沈黙が下りた。 苦くなってしまったふたりの紅茶を捨て、カーンは自分のために、紅茶を入れた。 自分ひとりだけのために。 五分待つ時間は、ひどく長く感じられた。
アーサー・フィリップ・デントは広い、広い図書館の前に立っていた。 給料日前で金がないからと、朝は庭に生えっぱなしの夏白菊と蜂蜜のサンドイッチで済ませているというのに。 どうしてこんな風に時間と費用を掛けてまで図書館を訪れる必要があるのだろう。 必要な本は、近所の書店で予約をすれば手に入る。 そう思う一方で、時折はロンドンの空気を吸うのも悪くはない、と突然に思い立ったのだった。 本で必要なことを調べていれば、美術品を観覧したり観劇をするような余裕もなく、夜はまた車を飛ばしてラジオ局のある辺鄙な街まで戻ることになるだろう。 だが少しくらい寝なくともなんということはない。 ありがたいことに、夏白菊のおかげでここのところは頭痛知らずなのだった。
公式の図書館というのは知の集合体だが、あらゆる人間が集まる吹き溜まりのような場所でもあることは確かだった。 ヒッピーのような若者、十日も服を洗濯していないような老人、目的を怠って昼寝をしている少年たち。 まともな利用者の方が多いので、彼らはひどく目についてしまうのだ。 アーサー自身、自宅にいるようなガウンを羽織ってこの中を歩けば、同類と見られてしまうだろう。 今日のところは洗濯したてのシャツと、コーデュロイのパンツを履いている。人にどう見られるのかを気にせずに、アーサーは図書館の中を歩き回った。 数台の検索用コンピュータのあるブースを見つけた。 汲めども汲めども尽きぬ水のような知識のことを海にたとえられることが多いけれど、単純にそう口にするのは早計だ。 自分が求める類の知識が、ただの一冊に纏められて大量の本やマイクロチップの海にぷかりと浮かんでいたり、釣り具屋で、釣りたい魚に合った疑似餌を購入するときのようにやすやすと手に入ることなどあるはずもないからだ。 自分に必要な知識は、砂粒ほどの砂金みたいなものだ。それが大量の砂、塵の様な不要な知識の中に混じっている。 砂漠に喩える方がまだ無難と言うものだ。 ただし、今日のアーサーは、紅茶を作るための本を探していた。 そうした一般的なテーマであれば、玉石混交というほどに同じ内容の本が、開架にも閉架にも溢れている。 同じ不毛の大地でも、探す知識に寄っては砂漠から河岸に場所を変えることがある。 何百冊と本があるうちから、比較的新しく、内容は素人向け、と検索範囲を絞っていけば、やがて数冊の本に絞られるはずだ。 アーサーは大舟に乗った気持ちで、図書館という不毛な大河に漕ぎ出した。
昨日まで安いティーバッグをがぶ飲みしていたくせに、なぜいきなり紅茶を作ったりする必要があるのだ、と思うだろう。 アーサーがそうするのは、次に宇宙に出たときに困らないようにするためだ。 宇宙に出る、と言っても寝ている間の話だ。 アーサー・フィリップ・デントは、寝ている間、宇宙をたゆたっている夢を見る。 奇妙な潜水艦のような船に乗り込んでいるが、窓からは星が見える。宇宙にいると、そんなに星が光っているはずがないと分かるはずなのに、窓からは数多くの星が輝いて見える。そしてアーサーは、船の中で奇妙な相棒たちに囲まれている。みょうちくりんな衣装を着た男や、白くて大きな丸い頭部を持つロボット、美しいけれど繋ぎを着た美女、そして愛想がよく、頭の中は軽そうな青年。それからもう一人。黒い服を着ていて、その一人だけ顔はぼやけている。輪郭だけが、男だと分かる。 アーサーには今までにそれらしき人物たちと友情を育んだことはないし、会社の同僚にもいない。 無意識に現実を投影しているとはとても思えないが、きっとどこか映画や雑誌で見た顔ぶれに違いない。 あるいは、アーサー自身が精神分裂した多重人格の部分なのだろうか。 去年やそこらに、そんな小説が巷で流行っていて、アーサーも読んだ。 その時はどうとも思わなかったが、読み終わって一年も経ってこうして夢に現れたというのなら、随分と暢気な話だし、仕事もそれなりに順調で金にも困っていない。女性がいないのは相変わらずだが、逆に手酷い失恋も経験していない。 精神疾患をわずらうような理由はないのだから、やはり手の込んだ夢なのだろう。 夢の中で、寝ることもある。ある夜など、アーサーはロボットにまでグッドナイト、と言っていた。 そんな充足を感じる一方で、いつも、いいところでお茶の時間になってしまう夜もある。飲み物は、ひどく薄い味の何かだ。アーサーはその度に美味しい紅茶が飲めないことをぼやき、侘しい気持ちのまま目覚める。 インドや、中国、セイロンと言った原産地のことを記憶していても、何の足しにもならない。お茶の木のことや乾燥させる方法や、そういった細かなことを知っていれば、きっと明日にも夢の中で茶が飲めるに違いない。 夢を見始めた頃は、紅茶を飲むこともあった。誰かと二人で飲んでいたのだが、すぐに夢の中は賑やかになってしまって、その頃の記憶はおぼろげだ。 寄る辺のない宇宙を漂う船の中で、お茶の木を栽培することだって可能だろう。 図書館の中はひどく静かだった。 コンピュータで検索すると、一万件以上の書籍が提示された。年内の発行に限定するとそのうちの数冊に減ったものの、それらのタイトルを一から確かめると、目当ての本はありそうになかった。 紅茶の本と言っても、コーヒーと紅茶の比較本、飲み方の指南、生産地や茶葉について、デカフェやフレーバーティーの作り方その他にも色々なテーマがある。 上手くは行かなかったので、三年以内とした。 アーサーがタイトルを確認する本は百冊も増えた。 そこで、コンピュータの検索では埒があかない、ということにアーサーはやっと気付いた。 仕方がないので、開架にある本を片端から見ていくことにした。 該当の図書番号は、コンピュータブースの近くにあり、すぐに見つかった。 ただし、手を伸ばせば届くという場所にもなかった。野兎のように跳ねてもどうにもならない場所にある。 棚の下の方には近世の詩人の書物が並んでいる。 学校を卒業するなり縁がなくなった分野で、学生時代にレポートのために読んだ本もいくつかあった。 書架はアーサーの身長の二倍もあり、リーチを伸ばすには、据付の梯子に登っていくか脚立が必要だった。 アーサーはそんなに高い場所が不得手ではない。ただ、好きでもなかった。 本を取るまではいい。 着地に失敗して脚を挫きでもしたら、明日から仕事に出られなくなってしまう。逡巡していると、背中に誰かがぶつかった。 「失礼。」とアーサーが言うと、「ここで何をしている。」と単調な声で男が言った。 アーサーは思わず飛び上がって、背後を振り返った。 目の前には、黒い髪の男がいた。 「図書館で調べ物をしている。それだけだ。」 アーサーは答えてから、なぜそんなことを聞かれなければならないのか、相手に答える義理もないことに思い至った。 「ぼくと君は初対面だろう。」なぜ返事しなくちゃならないとアーサーは言った。 「そうだったか。見たことのある相手は忘れない。お前の方で私を忘れたのではないか。」 男の静かな声は、図書館の中で彗星のように尾を引いて消えた。 アーサーは彼を見た。夢の中で見た宇宙のような深い瞳を見た。 その双眸は、男を冷静で、沈着に見せる。 「ぼくが忘れたというのなら、きっと夢の中で逢ったんだろう。」 「恋愛詩ばかり読んでいたら、頭に黴が生えて来るぞ。」男の、物憂げで冷淡な声。 アーサーは真っ赤になって「無礼な男だな。ぼくがここで探しているのは、紅茶の本だ。」と言い返して梯子段に爪先を掛けた。 「死にたくなければ、頭を冷やしてから登るべきだ。」 「君にそんなことを言われる謂れはないね。」とアーサーは言った。 「鳥のように飛べるわけではないのだろう。」と男は付け加えた。 ところが、夢の中のアーサーは鳥のように飛べるのだった。 無重力の宇宙空間では、特に益のない能力だが。 そうして、アーサーの夢の宇宙空間では地に足が付いていることにふと気付いた。 目当ての本を片手で書棚から引き出して、片手で身体のバランスを取った。 どうだ、ぼくだってやれば出来るんだ、と思った途端に、手が滑って身体が揺れた。 「わっ、」 ドサドサっ、と本が落ちて、アーサーも同じように床に落ちる代わりに、男に身体を支えられていた。 「言ったとおりだろう。」お前は鳥ではないと男は言ってアーサーの手を引いて歩き出した。 「おい。」 ぐるりと開架の中にアーサーを引き込むと同時に、図書館員が騒ぎを聞きつけてやって来た。
「ありがとう。」とアーサーは男に言った。 よく見ると、男は、仕立てのいい服を着、本屋でどんな本でも買えるのではないか、と思える時計を嵌めていた。 「茶の本を読むのか?」 「え?」 アーサーが取っていたのは、茶の湯の本だった。日本文化について書かれているようだ、と表紙から知れた。 必要のない本まで持ってきてしまった。慌てて、背中に隠すようにしてしまった。まるで子どもの振る舞いだ。 「いや、紅茶の本を探してた。家で、栽培してみようかと思って。」 「私の家にも茶の木があった。」 「へえ。珍しいね。」 「使用人がその木から葉を摘んで茶を作っていた。」 「そうか。使用人か。」上の空で相槌を言うに至って、アーサーは口を噤んだ。 育ちが違うという以前の問題で、異文化交流だ。 「昔から、茶を入れるのが苦手だった。白湯を沸かして、それから待つだろう。」 「そうだな、一分か、二分か。」 「四、五分待てと言われ、待っている途中で嫌になってしまった。薄い茶を飲むか、抽出出来るまでに、それを放り出して行ってしまう。」 「随分と短気な子どもだったんだな、とは言わないよ。五分は長い。」 「他のことでは、それほど気の短い方でもなかった。紅茶のことだけだ。」 「もう大人なんだから、嫌ならジュースを飲めばいいさ。」 「紅茶を飲むのが嫌なわけではない。どうしてあの時間が待てないのか、自分でも分からない。」言い訳のように男が言った。 この返事に、アーサーは小さな勇気を得た。 沈着さや自信の中に、小さな子どもだった頃の男の心が潜んでいて、こちらをそっと窺っているように感じられた。 多少の失言があっても、男は気にしないのではないかというかりそめの安心に、アーサーの舌は滑りを良くした。 「じゃあ、湯を入れた後、レンジで暖めるのは試したか?」 「お前の言っているのは電子レンジか? 抽出した後の茶葉をどうする? 二度手間だろう。」 「きみ、ティーバックを使ったことはないのか?」とアーサーが訊ねると、男は、あれのことか、と得心したような顔になった。 とんだお坊ちゃんだ。 「茶を作りたいなら、図書館よりも、むしろ郊外の園芸店に行ったらどうだ。」 男が話を反らしたので、アーサーもそれにあわせることにして、そうだな、と相槌を打った。 「茶の木は、暖かい場所の方がよく育つ。水はけのいい酸性の土を好む。日当たりのいい場所を好むが、日陰がある方がいい。」 「君、詳しいな。適正な土と、必要な水と、日光の量、冬の耐寒温度が分かれば上々だ。」と言葉を口にすると、男はむっつりと口を噤んでしまった。まるで、口が勝手に動いてしゃべったと言わんばかりに。 男は、アーサーが最初に思ったよりも、ずっと表情が豊かだった。 「これ以上の、園芸の知識はない。」 同じ言葉を、夢の中で誰かが言っていた。多分、気のせいだ。 「ぼくも。」 「店に行く前に、電話をするといい。通常の園芸の店に、ハーブや薔薇はあっても、茶の苗木があるとは限らない。」 「そうだね。」 賢いなとアーサーが言うと、男は、最初の高慢そうな顔に戻ってしまった。 「君は、今日は何をしに図書館へ来たんだ?」考えてみたら、こんなに話し込んでいるのに、互いの名前も知らないのだった。 「特に用はない。仕事から離れていたいときに来る。」 ここまで仕事は追ってこない、と男は笑った。 アーサーは、「君も庭を造ればいいよ。」と言うと、男は目を瞬かせた。 「私が、庭を?」 「お茶の木を植えたらなんて言わないよ。タイムや、ローズマリー、食事に使えるものでもいい。」 「ハーブは買ってくることも出来るだろう。それに、食事は外食が多い。」 男は、馬鹿げたことと笑わなかった。 「じゃあ料理もしたらいい。逃げるために図書館に来るなんて。時間が勿体無いだろう。君の生活は、もっとシンプルで、それから豊かであるべきだよ。」 アーサーはなんだか口が滑ってそんなことを言ってから、自分の生活を省みた。 フィッシュとチップスとまたフィッシュ。 パブで飲んだりから騒ぎをすることが豊かな生活とは、とても言えそうにない。 けれど、アーサーは口を閉じずに「また図書館に来ていたら、ぼくが田舎に連れて行ってやろうか。」と言ってしまった。 どう考えても、ひどい失言だ。 アーサーの部屋は小汚くて、人を招くようには出来ていない。 「田舎へ?」 「ぼくのおんぼろ車で。着いたら茶を入れてやるよ。ティーバックの安物で良ければ。」 「それは興味深い。」と男は言って、アーサーに名刺を渡した。 カーン・ノニエン・シン。 男の名前をアーサーは復唱した。 「なんだか、聞き覚えのある名前に思えてきた。」 「私はもう自信がない。きっと気のせいだったのだろう。」 うつろう光の中で、アーサーは男の顔をしみじみと眺めた。 彼の輪郭や、彼の髪の色や、それから、彼の瞳の色を。 見覚えはないはずなのに、どこか懐かしいように思えてきた。 男も、アーサーを見つめていた。 それから口を開いて「お前の名前を聞かせてくれ。」と言った。
STID+銀河ヒッチハイク