宇宙の果てのガイドブック2

コインランドリー(スチョルとサング/MTH)

子どもの頃はずっと、部屋にある服を入れ替えるようにと親から言われることで季節の変わり目を感じていたように思う。 まだ暖かいのにと思いながら、分厚い服を着るようにと言われ、そのうちに、布団の外に出ていくのも億劫になる寒い冬がやってくるのだ。 こうして一日、また一日と冬に近づいていく気持ちになるのは、何年ぶりのことだろう。 スチョルはランニングをしながら、ぼんやりと曇る空を見上げた。 頬に冷たい風が当たっている。 帰り道では雨が降るかもしれない。 ついこの間までは、走っているだけで、暑い、としか頭が働かなくなるくらいだったのに。随分と気温が下がってしまった。 濡れて帰ったところで逆に涼しいだろう、と思っていたが、土砂降りになったら雨宿りをするしかない。途中で傘を買う金もないのだ。 兄貴に見つかったら、馬鹿は風邪を引かないからそのまま走って帰れ、と言われそうだ。 そう思いながら、コーチ兼厳しいトレーナーでもある、サングの顔を思い浮かべた。 実際、コーチングを受けるようになってから、少なくとも二度は似たようなことを言われた。 嫌みは言うが、都会の大学に行くコースを外れた人間がどうなるかくらいは聞き知っているらしく、恨みがましさと腹立たしさを無理やり抑え込んだような顔で、お前は高校をちゃんと卒業してどこかの大学に入れ、とも言われている。 学校帰りのスチョルが鞄に入れていた教科書を勝手にペラペラと捲り、俺は分からないからな、と前置きして放り出したくらいだ。ただの憶測だが、きっと高校での教育はほとんど受けてないだろう。とはいえ、まさか、高校生の分際で兄貴は中卒ですかと聞けるはずがない。 実際に中卒ならデリケートな問題だし、そうでないなら馬鹿にしているのかとタコ殴りにされるのがおちだ。 でも、大卒だろうがそうでなかろうが、兄貴の頭は悪くない、と思う。 そもそも、そこらの机の前に座っているだけが能の奴らよりは、余程胆力があって賢い。 そうでなくては、あんな広々としたビルを借りていられるはずがない。 今日だって、普段のトレーニングは休め、持久力を作る目的のランニングは続けていい、と指示された。 こうして意識的にトレーニングを休む日を挟めば、今の自分に何が足りないか見えてくる、らしい。 余った時間は寝ろ、とも言われた。 正確な言い方はもう少し乱暴だったが、サングの言葉を要約すれば大体そういうところだ。 スチョルも、スポーツ科学の関連本を何冊か読んだが、そもそも、トレーニングとは本来一日おきがいいらしい。 チョ・サングは、月に2度あるかないかの仕事の日が終わると、その次の1日は必ず休養日にすると決めているようで、一切合切の労働をしない。 お前もジムには来るなよ、と言う。専門的な知識のない教員が時々見に来るだけ、毎日だらだらと練習を続け、入って来た新顔をいびるだけが能の先輩がはびこる運動部で基礎を作るよりは、よっぽど科学的だ。 今日も、このランニングを終えたら、学校の課題をして、寝るだけの予定だった。 その中には、サングと顔を合わせる時間は入っていない。 少なくとも、兄貴にとってはそうだ。 スチョルは、足と腕を動かしながら、はあ、とため息を吐く。 ――親の脛を齧っていられる身分だ。選択肢は多い方がいい。 表立って勉強をしろ、とは言わないが、サングが言葉に込めた、その言外のメッセージは明らかだ。 サングとの間にある壁を感じたが、何しろ、こちらはまだ子どもで、学歴競争という社会構造からは逃れられない。学校の中に閉じ込められてしまう年齢なのだ。 そして、開かれる扉は多少……いや、かなり狭くはなるが、大卒と、中卒や高卒の間には天と地の開きがある。 いじめで人生をドロップアウト仕掛けた劣等生のスチョルだって、そのくらいのことは分かっている。 だからって、それとこれ……サングのこととなると、話は別だ。 スチョルにとって、サングはただボクシングのコーチというだけではない。 コーチであるサング、兄貴分を気取るサング、面倒くさがりのアジョシ。 スチョルが考えるサングは、そんなサングと同じでありながら、全然違っている。特別な相手だった。 そのことに、サング自身は気づいていない。 ああ、くそ、腹立たしい。 素直に好きだとは言えない自分が悪いとか、自分がまだ子供であるとか、そんなどうにもならないことで落ち込みたくはなくて、だから、言わせない兄貴だって少しは悪いじゃないか、という気持ちになる。 腹の中に芽吹いた、そんなどす黒い気持ちは早めに吹き飛ばしたくて、スチョルはただ走る。 走って、走って、走って。そうして、いつもの看板が見えて来た。 練習生募集とは決して書かれることはない、サングのボクシングジム。 スチョルは、明かりのついていない窓を見上げ、ビルの前で、ゆっくりと立ち止まる。 ここまで走ってくるまでにすっかり汗をかいていて、肩に斜め掛けした鞄から出したタオルで首を拭いた。 サングは、人としてはずぼらな男ではあるけれど、コーチとしては、決めたことには頑固だ。 今日も、ジムの扉にはしっかり鍵が掛かっているに違いない。 スチョルが未成年だからか、はたまた別の理由か、一応予備の鍵が隠されているところは知っているが、預かっていろと渡されることはない。 独り立ちできる年ではあるけれど、一丁前の男と見られるのはまだ先のことだ、ということだろう。 会えないのは分かっているが、顔が見たい。 もし恋人なら今すぐにでも電話するのに、と思うが、こちらは、サングの個人的な携帯電話の番号どころか、住処すら知らないのでこれ以上はどうしようもない。 この辺りを少しうろうろしてから家に戻るのが精一杯だ。 速度を落としてジョギングしようとして、そのままぶらぶら歩きの速度でうろついていると、最近やっと見慣れて来た街並みの中、普段の通り道の少し先の一角に出来たばかりの新しいコインランドリーに目が行った。 色味を抑えたパステルカラーの黄色の看板に、壁はペールブルーで統一されている。 外から見える洒落たコインランドリーは、ボクシングジムの入った雑居ビル周辺の、場末の市場に近いようなこの辺りの空気からは明らかに浮いている。 まさかここにはいないだろうと思いながらも、ふらふらと吸い寄せられるように近づいていくと、どこで買ったのかというような柄のパーカーを着ているサングがそこにいた。頬には青あざを半分隠すような絆創膏が付いている。 「……え?」 声を掛けようかと思ったのと同じくらい、気軽に声を掛けられないような気持ちになった。 無防備なサングの横顔は、それがボクシングの傷と知らなければ、誰かに守られていい存在であるような雰囲気があった。 どれだけ、その横顔を見ていたのだろう。 コインランドリーの前で立ち止まっていたスチョルの視線に気づいて、顔を上げたサングが不機嫌そうに眉を上げた。 遠目にも、頬の辺りから唇の下に掛けて、いつものまばらな無精髭がはっきり見えているにも関わらず、この薄曇りの空の下でサングが輝いて見える。 どう考えても、昨日スジンと一緒に見た恋愛ドラマの影響だ。 (今日は休みだっつっただろうが。) 声は聞こえないが、顔つきで何が言いたいかは大体分かる。相手は、あのチョ・サングだ。再会の喜びに浸るようなロマンチックは、させてもらえないに決まっている。こういう時は、そう、早く謝っておくのが無難だ。 出来たばかりと思しきこの小奇麗なコインランドリーの中に全く人がいないのは、このサングの鋭い目つきと顔にあるのではないだろうか。 堅気の人間が入って来られるような雰囲気ではない。 スチョルは、勇気を奮い起こして、コインランドリーの扉を開けて一歩中に入る。 「コーチ、すいませんっ。」と勢い込んで頭を下げると、サングは大股で歩いてスチョルの頭に手を置いて、更に深く頭を下げさせた。 「キィム・ス~チョル~~~、お前はここに何をしに来た?」 ぐいぐいと、頭を下げさせて、サングは、大声でスチョルの名を呼んだ。 靴ひもを適当に結ぶなど、ボクシングの安全面でミスをしたときのようだ。 腹を立てているのと、怒っているのと、その上で、こちらがミスをしたことを半分面白がっているような声音。 それから「身体を休めとけと言っただろうが。」と一段声を低くして、ぐりぐりと拳を頭に当てている。これは痛い。 「いや、今日はほんとに、ランニングだけのつもりで……それから、この辺りにある何とかいう店でチヂミを買って行こうかと。」 サングの(本気ではないが)制裁としての拳を避けるためだけに、スチョルは適当な言い訳をした。 チヂミの専門店、というのではないが、店先にチヂミを並べている店があるのだ。 買いに行ったことはないが、いつも横を通ると誰かしらが店の前に立っていて、海鮮チヂミ何枚、普通の何枚などと言って店のおばさんと会話を交わしている。 本当はチヂミがそれほど好きでもなく、買った食べ物がいつものあの黒いビニール袋に入れられるのも本当言うと少し苦手だった。 「チヂミ?」 「はい。さっと夕飯食べてそのまま勉強しようと思っ……てたんですけど。一応ランニングも兼ねて。コーチがそれでいいと言ったので。」とどんどん声量が小さくなっていく。テレビか、と心の中でツッコミを入れてしまう。 言い訳を信じたのか、分かった、と一言、サングはパッと手を放してスチョルがゆっくりと顔を上げるのを許可した。 「スチョル、お前、今日はもう帰れ。」 「嫌です。」 「は?」 サングは、苦虫を嚙み潰したような顔で何言ってるんだ、と悪態を吐いた。 灯りの下で見る顔には、小さな傷や殴られて腫れたような跡がある。小奇麗な鼻筋が台無しだけれど、不思議と痛々しいとは思わない。 陳腐な言い方だけれど、小さな傷も、サングの顔にあれば勲章に見えるのだ。 こういうところも含めて、サングは男前が板に付いていると思う。 「お前、チヂミ屋はもう一本手前の通りだぞ。……本当に道に迷ったのか?」 満身創痍のコーチは、値踏みをするような目つきで、訝し気にこちらを見ている。 筋肉隆々の腕がにゅっと伸びて、スチョルの耳を引っ張った。 「ちょ、コーチ、いてっ、ちょ、痛いですよ。何ですかこれ!」 「前途洋々の高校生様が勉学をサボってこんな薄汚い町のコインランドリーにいるんだ、何しに来たか気になるのが人情ってもんだろ。もしかして、この辺りに女でも出来たか?」 「は? 女?」 「お前みたいな年で、他に理由があるか? あんまり張り切るなよ。」 女とヤリ過ぎると試合で使い物にならなくなる、と下種なことを言ってにやにやとこちらを見る男の横顔を、張り倒したくなる一瞬がある。普段の生活でカッとしたら自分の中の暴力性と向き合え、とサングは言うが、そもそも、大人しく殴られてくれないような相手を好きになった場合はどうしたらいいのか。 とはいえ、殴られた傷は、それがボクシングで出来た傷だからいいのだ。 サングは時々、どこか捨てられた子どもみたいな顔になる時がある。 「いませんよ、彼女なんて。」残念だが、それが真実だ。 キム・スチョルに彼女はおらず、サングは絶対に、スチョルの『彼女』にはなってくれないだろう。そもそも、こんな握力の強い彼女なんて御免だ。 「くそっ、離せ、離してくださいよ。」 腹立たしいが、スチョルが付き合いたい相手は今のところ世界に一人しかおらず、その相手はスチョルよりずっと立派な一物を持っていて、スチョルのことを、将来の展望を捨ててしまった馬鹿な子供だと思ってる。多分。 「本当か?」 「本当ですってば。第一、出会う場所がないじゃないですか。道端でナンパされたら、マルチ商法を疑う方が先ですよ。」 「マルチ?」 「マルチ商法ですよ。絵とか……壺とか……。」 「あーーーーー。」 サングが、粗方得心が行ったという顔になっているのがまた腹立たしい。 世界チャンピオンになった後に指輪を携えてのプロポーズでもしないと、この気持ちを信じては貰えないのではないだろうか。 勘ぐるような、ポッと出の彼女との薔薇色の未来なんて、描きようがない。 「迷子になっただけです……認めたくないですけど。」 もう何か月もサングのジムに通っているのだ。道沿いにあるほとんどの店は、店の名前というより業態で頭に入っている。 外がガラス張りではない怪しいクリーニング店、例のチヂミ屋の隣の魚屋、ねじりパンとホットクの店、青果店、キムチ売りのおばあちゃんの店、ほとんど屋台のような飲み屋に、カラオケパブ、未成年が入れないような雰囲気の店に、二十年は時代遅れの服屋。サングのボクシングジムも、廃業間際のところを譲り受けた、というだけあって、かなり年季が入っている。 とはいえ、サングはこれまでに一度もスチョルのことを見送ったことがない。片付けている途中から、すっかり自分のトレーニングの時間に入ってしまうからだ。 スチョルがこの辺りの道に明るいか疎いかなども、知らないに違いない。 「スチョル、お前が探している店は、ここを出た角を曲がればすぐのところにある。」 「そうですか。ええと、じゃあ、また迷ったら困るから、付いて来てくれませんか?」 「スチョル、おい、」サングがこちらを見える。 「はい!」と言って姿勢を正す。 「あと少しで洗濯が終わるから待ってろ。付き合ってやる。」 甘えるな、馬鹿野郎、とどやされるかもしれないと思ったけれど、その五分五分の賭けに、スチョルは勝った。 コインランドリーの洗濯機兼乾燥機の中では、ぐるぐると着替えが回っている。ここはサングの家から近いのだろうか。 「コーチは、今日はこれからどうするんですか?」 「飯食って寝るだけだ。」 ……そうか、寝るのか。どんな場所で寝ているのか、好奇心がぐるぐると頭を回っているうちに、タイマーのような電子音が鳴った。 乾燥と洗濯がすっかり終わった様子だ。 サングは、こちらに背中を向けて、ランドリーバックというか、いつものボクシングジムで見たことがある、どでかいバックに洗濯物を詰め込んでいる。 衛生面で、洗って乾かしたばかりの洗濯物を入れていいようなものか、と疑問に思ったが、そこを口答えしたら面倒なことになりそうだ、とも思う。 サングも、普通の男みたいに洗濯物を畳んだりするんだろうか。 「あの、今から、これからコーチの部屋に行っていいですか?」 口から滑った言葉に、サングが眦を吊り上げた。 「は? お前いい加減にしろよ。」 「あ、その、つまり、この空模様だから、傘を借りたくて。」 「傘なら、ジムの前のとこにある忘れ物の傘を持ってけよ。柄のところがサビてるけど使える。」 「あの……その、うちに持って帰っても、外で買ったチヂミが食べたいやつは俺しかいないし、」 「一人で食えよ。」 「いや、俺は、えっと、コーチは、腹減ってないんですか?」 「さっき食ったばっかだからな。どっちかっつうと、コムタンとかのがいい。」 こちらからすれば駄々洩れに近い欲望の発露を誤魔化すために、しどろもどろになって言い訳を並べると、サングにはその姿が面白かったのか、口元を緩めて「まともな傘がいいのか?」と言った。絶対に、それが言い訳であることは分かっているという顔をしている。こういうときのサングは小悪魔に近い。 「俺はまだ高校生なので、腹が膨れるのがいいです。」と言うと、 「……しょうがねえ奴だな、スチョル。」とぐしゃぐしゃとスチョルの髪をかき回した。 サングは笑っているが、さっきまでのにやにやとした笑みとは違う、開けっ広げで、嬉しそうな顔だった。 「コーチ、それ、止めてください。」 「はは、お前生意気。」と言いながら、サングはまたスチョルの髪に触れて、頭をぐしゃぐしゃとした。 サングの指は、この手は、人を殴るためだけにあるんじゃない。 そうした存在が自分であることに、その事実に、スチョルはふと泣きそうになった。サングは、手を離すと、スチョルを見つめて「その図太さがあれば、お前は大丈夫だ。」と言った。 俺がいなくても、という言外の言葉に「……そうですか?俺にはまだ兄貴が必要です。」と反論した。 「まあ、お前のコーチを信じろって。」 耳を引っ張られる代わりに、バン、と背中を叩かれた。 この背中の痛みはいつか忘れても、さっきのサングの笑った顔は、ずっと忘れられないだろう。 スチョルは、そんなことを思いながら、隣の男から視線を逸らし、うっかり目に入って来たバックからはみ出たパンツのチェックの柄に、大きく目を見開いた。